「中学生でも分かるエジプト不動産」
公式LINEアカウントにて友だち追加して
10分でサクッと読めます。
期間限定無料ダウンロード!

⚫️ エジプトの平均年齢は、 24才
⚫️ 2050年迄に人口1億 ➜1.7億人
今、エジプトでは「首都移転」が起きています。
私は4人兄姉の末っ子で、泣き虫。 基本的に小心者で何をやっても 直ぐ挫折して、 全くパッとしない少年時代を送りました。 高校もパッとしない男子校で、 勉強だけのつまらない日々。 唯一得意だった数学が功を奏し、 有名私立大学に合格。 しかし、受験勉強のせいで、 燃え尽き症候群を発症。 大学時代は、まるで廃人のように生きました。 卒業後も就職する気になれずに フリーターの道へ。 26才になっても 「する事」も「したい事」もなくなった私は、、、 こんにちは、三井と申します。 私は今までの人生の様々な場面で 「自分のやりたい事」が何なのか 全く分からなくなる時が度々ありました。 しかし、ひょんな事をきっかけに ビジネスに出会い、奮闘しました。 小さな成功体験はあったものの 本当に多くの失敗を重ねて、 4000万円までの借金も作りました。 どん底まで行き、 流石に自信喪失になりました。 生きる楽しみが分からなくなり、 「自殺」も頭によぎった事があります。 しかし、そんな私を救ってくれたのは 先輩(仲間)でした。 私の考える成功の秘訣はズバリ2つ ・やり続ける信念 ・成功者を引きつける事 現在までに設立した会社は5社。 事業で稼いだお金の半分以上を投資に回して、 累計1億以上の投資を実行しています。 ・仮想通貨に3000万円投資 ・海外不動産に2500万円投資 ・ベトナム日系ファンドに3000万円投資 ・アクティビスト・ファンドに1000万円投資 ・オプション取引に500万円投資 事業もやりながら、 様々な投資の研究をしています。 自分で言うのもなんですが、 年上の方に好かれる素質を持っています。 韓国語が話せて、 持ち前の「知的」と「面白さ」で、 年上の方を喜ばせる事が得意です。 そんな社交性を活かしながら、 今も「長い関わり」を築けているような気がします。 事実、今現在の仕事や投資をしている案件も全て 先輩(仲間)からのキッカケばかりです。 私の人生において、 「人」はとても大切な要素です。 このようなSNSやブログを通して 自分の価値観と信念を知ってもらい、 ビジネスを通して 「人」に幸せになれる方法を広めています。 では、なぜ情報発信をしているのかというと、 「お金や時間に縛られない仲間を増やしたい」 と思っているからです。 私の人生における様々な場面で 救ってくれた先輩(仲間)のような人に もっと出会いたいですし、 私も先輩(仲間)のような人間になりたいのです。 一緒に事業や投資もできますし、 より豊かになって 「大人の青春」を味わいたいのです。 私には、パッとした青春の思い出がありません。 人生1度だけ。 かけがえのない「大人の青春」を一緒に謳歌しませんか? 私の価値観や信念について話していく前に、 簡単に自己紹介をします。 ・IT事業開始8ヶ月後から毎月100万超えの不労所得 ・最大月収1900万 ・投資累計1億超 ・Token News Ltd 主催の仮想通貨カンファレンスで投資家1000人動員 ・ブログで1日最高1万PV達成 ・韓国仮想通貨カンファレンスで同時通訳 ・365日24時間が自由な身 ・シンガポールを拠点にしつつ、毎月日本、韓国、ベトナムをビジネストリップ ・SNS、筋トレ、食べ歩き、旅行が趣味 ・好きなアーティストはColdplayとかMaroon5とかそっち系 ・お酒はそこまで好きでないけど、仲間と飲むと何故か飲み過ぎる ・筋トレと英会話を1年以上継続中 ざっくりこんな感じです。 華々しく見えますが、 暗黒な時代もありましたし、 「自殺しようか」と、 追い込まれる程の絶望を味わったこともあります。 しかし、諦めずチャレンジし続けた結果、今があります。 私なりの価値観や信念が伝われば、 誰もが成功を収められると思います。 私の”人となり”が簡単に分かるように これまでの人生を年表にまとめてみました。
目次
プロフィール年表
0才 愛知県西春日井郡に在日韓国人として生まれる。 10才 実家はパチンコ店。4人兄弟の末っ子で泣き虫。兄や姉からは”おやつ”のお使いを命令される日々。そのせいか、少し我慢強い性格になる。 13才 中学生。プロ野球選手を夢見るも、辛い練習(特に持久力)に耐え切れず挫折。 16才 頭は良くないけど算数は得意で、なんとか私立の男子高に進学。高校の勉強はスパルタ。男子校で、「する事」もない為、華やかな大学生活を夢見て勉強の虫になる。1日12時間以上の受験勉強。 18才 華やかな大学生活を夢見て続けた勉強の結果、関西大学に進学。野球で挫折した人生が帳消しになったような爽快感。しかし、我慢し続けた受験が終わり、燃え尽き症候群が発症。もう勉強は1ミリもしたくないくらいの虚無感に陥って、廃人のような大学生活を過ごす。 22才 大学4年間でした勉強はほぼゼロ。両親に申し訳なく、途中で大学を辞めたいと打ち明けるも、卒業だけはしろと断られる。なんとか卒業した後、就職もしないでフリーター生活をスタート。とにかく何かに縛られて生きていく事が嫌だった。 23才 受験の時から憧れていた音楽アーティスト(Hi-standardというメロコアバンド)のようになる道へ進もうとバンド活動に打ち込む。担当はドラムス。 25才 音楽は仕事にはできないとバンドの夢を諦める。挫折。自分は何をして生きたいのか分からないと、途方に暮れて、学生の時以来の虚無感に陥る。 26才 「する事」も、「したい事」も分からなくなった自分。ふとした時に、自分は「なぜ韓国人なのに日本に居るのか?」「なぜ韓国語が話せないのか?」という疑問に苛まれる。彷徨う自分のアイデンティティを確立するために歴史と語学を学びに韓国留学を決意。 27才 海外に飛び出た事で、自分の閉鎖的な世界観が変わる。「日本で生きてるんじゃない。地球で生きているんだ。」留学という自分の環境を活かしてAmebaブログを開始。韓国料理を食べ歩くコンセプトで日本へ向けてブログ発信。1日1万PV達成。 28才 韓国料理の中で最も感動したカンジャンケジャンに出会う。日本人大好き醤油と野菜、果物、ニンニクを混ぜた熟成ダレに生のワタリガニを漬け込んだ料理。初めて食べた時のあの衝撃が忘れられず、ビジネス構築に挑む。カンジャンケジャンの日本進出を某有名店に提案。事業アイデアを盗まれて大失敗。 29才 続けていたAmebaブログの集客力を利用して韓国現地でツアーコーディネートを開始。韓流ブームにも肖って月商100万円を達成。1人での業務は追いつかなく、留学クラスの友人たちにもアルバイトを依頼するほどまで拡大。結果、半年で300万円を稼ぐ。 30才 留学生活を終えて日本に帰国。貯めた300万円を元手に法人設立。日本で流行っているデザインのレディースバッグを韓国で発見し、EC事業として輸入販売開始。買い付けのために日本と韓国を年間50往復しながら、楽天市場で独占的に販売。月商400万円を達成するも、2年後、市場の飽和により廃業。 32才 なめらかプリンの生みの親、「所パティシエ」のレシピを使用してビジネスができるとの話を頂き、レシピを学びに上海で2ヶ月間の修行。学んだプリンレシピをもとに、韓国で菓子製造業を開始。ロッテ百貨店に10店舗展開して、1日6000個の「なめらかプリン」を販売。日商300万円を達成。 33才 菓子製造業のかたわら、韓国ソウル郊外にカレーライス、もつ鍋、鉄板焼などの和食をコンセプトにしたレストランを開始。ランチの和風ドライカレーがバズって連日大行列。地元新聞に載りディナータイムも予約殺到。 34才 自社製造の「なめらかプリン」をメインとしたデザートカフェを韓国梨泰院にオープン。 35才 デザート市場の飽和により「なめらかプリン」ブームが終わる。雇った40人の従業員、家賃(店舗・工場)、仕入れの支払いが困難になり債務超過。やむなく菓子製造業とデザートカフェを廃業。 36才 デザート事業から解放され、レストラン業に集中するが、高額な家賃に悩まされ、売り上げの為に毎日18時間猛烈に働くも利益には繋がらず自転車操業。身も心もズタズタでやる気が出ない。4000万円の借金を残してレストランも廃業。 37才 東京でIT企業を経営する先輩から手を差し伸べられる。日本に帰国してIT技術を学び、ゼロから再スタート。毎日16時間の勉強を続ける。開始6ヶ月目に初の売上100円達成。7ヶ月目に30万円達成。8ヶ月目に100万円達成。 38才 韓国語と日本語が話せる強みを活かして仮想通貨メディア(Token News H Ltd)の韓国プロジェクトマネージャーを担う。韓国ICOカンファレンスで投資家1000人の動員を成功させる。ICOプロジェクトに投資成功し4000万円の借金を完済。 40才 先輩に誘われエジプト訪問。現地の首都移転を目の当たりにして、衝撃を受け不動産投資を即決。ランボルギーニレジデンスに2500万円投資。 41才 今年上場予定のベトナム日系企業ファンドに3000万円投資。シンガポールに法人を設立して「エジプ投資」ブログを開始。自分の投資実体験を発信するとともに、投資仲間を探す。結婚を機に将来を見据えてシンガポールに移住。 42才 アクティビスト・ファンドに1000万円投資。 現在、複数の事業と投資を展開し、40代のうちに「資産10億円」を目指して奮闘中。 若い頃の私はいつも、 「嫌なこと、辛いことは避けたい」 「人生の目的がよく分からない」 などのネガティブな事ばかりを考えていました。 野球に挫折して、 「何にやりがいを持てば良い?」と思ったり。 大学には合格できたものの、 「未だ何を勉強する必要があるの?」と、燃え尽きたり。 就職活動でも 「したいと思えない仕事をして、一生働いていくの?」 と、フリーターに逃げました。 バンド活動もうまく行かず 気づいた頃には、26才です。 いつも挫折したり、疲れたり、 うまくいかないことばかりの人生でした。 しかし、そんな私でも 人生の目的というものについて 考えた事があります。 これを読んでいるあなたも一度は 人生の目的を考えたことはあるのではないでしょうか? 私が考えて行きついた人生の目的とは、 「幸せになる」ということでした。 誰しもが 小さい頃は幸せがたくさんあったと思います。 公園で遊んだり、ゲームをしたり、友達と騒ぐだけでも それはもう幸せの極まりでした。 しかし、何故そんなもので幸せと感じられたのでしょうか? それは、親という安泰なものに守られていたからです。 逆を言えば、責任はなく不安もなかったからだとも言えます。 家庭がいつも幸せを運んできてくれました。 子供は親(大人)に依存して、 子供の世界の中だけで、幸せを感じているのです。 親から解き放たれたら 不安を抱え、幸せは幸せと感じられなくなるでしょう。 つまり、「子供の幸せ」と「大人の幸せ」を 上手く乗り換えられる事ができなければ 幸せになれない。幸せが何なのか分からない。 という事です。 だから、 「大人の幸せ」を体現化していく事が 人生の生きがいになると私は気づいたのです。 次第に幸せへの探究心が明確になっていった私は、 既に26才になっていました。 フリーターとバンド活動を辞めた26才。 私は、今までの自分をリセットします。
ビジネスに目覚めたキッカケ
私が26才になってバンドを辞めたことは 幻想から目が覚めたという事でした。 地位や名声を得たい、 と言う憧れみたいなものを捨てたと言う事です。 野球も挫折、大学も挫折、バンドも挫折 最初は「何をしたら良いのか分からない」という虚無感に陥りました。 しかし、「いつかお金持ちにはなりたい」 という気持ちだけは、ありました。 とりあえず今までの生活をリセットした私は ふと、私自身のことについて考える事がありました。 私は、在日韓国人という家庭に生まれ、 物心ついた時には自分が韓国人である事は なんとなく自覚していました。 しかしながら、自分は韓国人なのに、 「なぜ日本に居るんだろうか?」 「なぜ韓国語を話せないのだろうか?」 そんなモヤモヤを小さい頃から抱えていました。 そのモヤモヤと、「今から何をしたら良いのか?」という 感情が混ざり合った26才。 私は「自分のルーツを知りたい!」と思ったのです。 そして、韓国への留学を決意しました。 私は6ヶ月間の準備期間を設けて 自分にまつわる歴史や韓国語の基礎を勉強しました。 準備期間を終え、 韓国ソウルの学校で2年間の留学生活を送ることになります。 私が留学の2年間で感じた最も大きな事は 「日本の中だけでは、世界は小さい。」という事でした。 そして、留学をしている間にも 人生を変えるような大きな出会いがありました。 私は留学先でパチンコ屋を3店舗経営する社長(Sさん)に出会ったのです。 Sさんも同じ在日韓国人として留学をしに来ていました。 そんな私とSさんの大きな違いは、 私 → プー太郎 Sさん → パチンコ3店舗の金持ち経営者 私とSさんは毎日一緒に過ごしました。 遊んで、学んで、飲み歩きました。 もちろんSさんの奢りです。 ほんと楽しかったです。 私の実家もパチンコ屋だった事や、 同じ同胞だった事で、可愛がってくれました。 私からするとSさんは雲の上の存在です。 何故なら、プー太郎と金持ちのパチンコ屋だからです。 会社を経営しながら留学に来ているSさん、 本当に凄すぎました。 平日は韓国で勉強して、 週末に、なんと日本に帰国します。 毎週末、日本に仕事で帰るのです。 学業と経営の両方をこなしていた事は 考えられませんでした。 私が今まで出会った中でも とんでもなくバイタリティのぶっ飛んでいる人、 それがSさんだったのです。 私はバイタリティをたくさん学びました。 人生を再スタートできそうな 大きな刺激をSさんからたくさんもらいました。 Sさんとたくさんの時間を一緒に過ごして 私も「金持ちになりたい」と強く思うようになりました。 留学生活中の私のする事と言えば、勉強のみでしたが Sさんから刺激を受け続けるうちに 次第に自分自身も「とりあえず何かできないものか」 と、思うようになり、 当時流行っていたAmebaブログを始めることにしました。 韓国中のお店を食べ歩くというコンセプトのブログを 日本へ向けて発信しました。 当時は、ドラマの”冬のソナタ”などをキッカケに 韓流ブームの真っ只中。 あれよ、あれよ、と人気が出て、 1日1万PVを達成するほどまでの規模のブログになりました。 ブログを通じてお金に変わったものは無かったのですが、 自分から他人へ何か影響を与えたような 優越感を得られました。 何か自分が認められたような気がして嬉しかったです。 食べ歩いてブログを書いていましたので 当然、美味しい飲食店をたくさん見つけました。 その中でも、私が最も感動した韓国料理はカンジャンケジャンでした。 その美味しさは、まさに「新世界が開いた!」 というような、表現がピッタリかもしれません。 日本人好みの醤油と野菜、果物、ニンニクの旨味を混ぜ合わせて 熟成ダレを作ります。 そこに生のワタリガニを漬け込んだ料理、 それが、カンジャンケジャンです。 私は初めて食べた時のあの衝撃が忘れられず、 何回もお店へ食べに行きました。 取り憑かれたようにカンジャンケジャンを食べました。 そしてその情熱が ビジネスのキッカケを生みました。 「この味を日本に広めたい」 私はどうやったら日本にこの味を届けられるのか よく考えて事業計画書を作り上げました。 生まれて初めての事業計画です。 私は拙い韓国語で 冷凍カンジャンケジャンの輸入総代理契約を目的に カンジャンケジャンの社長に直談判しに行きました。 結果、とても好意をもって下さいました。 「日本進出も見据えて考えていきましょう!」 となったのです。 が、しかし! 結局、アイデアだけを盗まれて、 半年後には東京にお店ができて 冷凍カンジャンケジャンのビジネスは失敗に終わりました。 しかし私は、この失敗にそれほど失望しませんでした。 「最初から上手く行くはずもない。」 「相手が悪かった。」 「そんな相手と契約していたら、もっと痛い目に合ったかもしれない。」 と、思えたからです。 「ビジネスはやりたい事だけでは進まない。」ということを学びました。 私は1つ目のビジネスに失敗して 2つ目を思いつきます。 1日1万PVのブログを活かして集客をしてみようと考えたのです。 当時は何かと韓流ブームでしたので これに肖り、 韓国を訪れる日本人にガイドをしてみてはどうか、と考えたのです。 ガイドのサービス料金は1時間で3000円 ・厳選する美味しいお店へご案内 ・お買い物での通訳と値切り交渉 ・ドラマのロケ地にご案内 ただし、食事とタクシー代金はお客様負担 この内容をブログに書いて集客したところ、 狙いは的中しました。 毎日、引っ切りなしで連絡がきました。 1人だけでは手が追いつかなくなり、 同じ留学クラスの友人たちにも アルバイトを依頼するほどまで拡大しました。 結果、半年で約300万円を稼ぐ事ができ、 ガイドビジネスでプチ成功を収められました。 ただ、このガイドビジネスはかなり大変でした。 朝9時から夜9時までガイドをしながら 顧客も管理して、次の日のガイドの準備をしなければなりません。 日中は通訳をしながら、私の知っている飲食店まで案内して お買い物も値切り交渉しなければならないので、 私自身が動き回る事が必須でした。 需要はあれど、 私は「何十年もこれを続けられない」と思いました。 また、ガイド業には資格が必要だということを知りませんでした。 結局、私は半年間でガイドビジネスを終わりにして、 また新たなビジネスチャンスを見つけます。 それは、韓国の友人に教えてもらった婦人用の韓国カバンの輸入でした。 当時の私にはビジネスを生み出す能力は ありませんでしたので、 とりあえず、すぐやる事にしました。 5000円で仕入れた韓国カバンを 20000円でネットで売るだけの事でしたが ニッチな商材だったのか ひと月で平均200個が売れて、約400万円を売上げました。 買い付けのために毎週韓国と日本を行ったり来たりするも、 手元に残るお金は毎月150万円。 私は勢いに乗り、大阪から東京へ進出して スタッフ3人を雇いながら 日韓を食で繋げるアプリケーション開発もスタートしました。 が、しかし! アプリケーションは、 半年で500万の赤字を出して終了。 韓国カバンも、知らぬ間に競合他社にマーケットを奪われて 終了せざるを得ない形になってしまいました。 儲けたお金も殆どなくなってしまいました。 ここまでのチャレンジ ①ブログ運営で自信を得る ②カンジャンケジャンで失敗 ③韓国ガイドでプチ成功 ④韓国バッグで成功からの失敗 ⑤アプリケーションで失敗 小さな成功もありましたが、失敗ばかりでした。
苦悩の連続
韓国カバンの輸入とアプリケーション事業も失敗して 私は再び、ふりだしに戻りました。 東京で稼ぎの無くなった私は、 東京で唯一の先輩(Hさん)の家に転がり込みました。 Hさんは、私が留学へ行く前に大阪で知り合ったIT企業の社長です。 (※HさんはSさんを紹介してくれた人でもあります。) Hさんは当時、大阪住まいでありながら 東京にもワンルームの家を借りており、 そこに私も住ませてもらいました。 会社を潰してしまい、稼ぎのない私は 毎日、新しいビジネスを模索する日々。 Hさんは、月の3分1くらいだけ東京にやってきて、 ワンルームで私と共に過ごしました。 月の3分の1とはいえ 稼ぎのない私を受け入れてくれた Hさんには今でも本当に感謝しています。 そんな同居生活が3ヶ月ほどたったある日 Hさんから、 なんと、ビジネスのお誘いを頂きました。 当時、デザート業界で一世風靡した パステル社の「なめらかプリン」が 中国で大ヒットしている。 この「なめらかプリン」を韓国でも 一世風靡させないか?というお話でした。 私は悩みましたが、 大好きな食べ物関係だし チャレンジする事にしました。 企業秘密であるプリンのレシピは、 上海に駐在しているプリンパティシエから習う必要があったため 私は上海まで修行に行きました。 上海で2ヶ月の修行を終えて、 いよいよ韓国で一世風靡を起こすために 菓子製造業の会社を立ち上げました。 私は、 新たなチャレンジをスタートさせました。 結果 ロッテ百貨店にプリン屋さんを10店舗を展開させて 1日最高6000個の手作りプリンを製造し、 日商300万円を達成させました。 製造工場も拡大して パティシエを20人、販売員も20人以上を雇い 順風満帆なデザートブランドを確立させていきました。 そして、菓子製造業の傍ら、 韓国の郊外に和食レストランもオープンしました。 モダンな和食をコンセプトに ドライカレーライス、もつ鍋、鉄板焼きなど 自らメニューを考案してお店作りをしました。 中でもランチタイムに提供していた ドライカレーが韓国人の口に大ヒットして、 瞬く間にSNSで広がり、連日の大行列を生みました。 噂を聞きつけた地元新聞の取材も受けて、 ディナータイムも予約殺到。 やむなく ”予約お断り” をする事が何度も続きました。 レストランも順風満帆という事で、 次は、デザートカフェも梨泰院にオープンさせました。 ①プリン製造・販売 ②レストラン ③デザートカフェ こうして、忙しい日々を送りながら、 ちょうど1年ほどが経った頃、 とうとう、 人生最大のどん底がやってきます。 デザートブームは続いていたものの デザート市場の飽和が起きていました。 「なめらかプリン」の二番煎じのような デザートブランドが何十個も誕生し、 私のお店もその勢いにのまれ プリンの売上がゼロ、という日が出てきたのです。 売上がゼロを記録してからは、 資金繰りの地獄でした。。 雇った数十人の給料が払えない、 売場と工場の家賃も払えない、 仕入れ代金も払えない、 私は初めて債務超過というものを経験しました。 しばらくして 私は、やむなく菓子製造業とデザートカフェ事業を 廃業するに至ったのです。 それでもレストランだけは続けながら 「絶対盛り返してやろう!」という思いで、 自らもお店に立ち、運営管理に勤しみました。 仕入れ、仕込み、営業、マネジメント、メニュー作り。 売上のために毎日18時間以上も猛烈に働きました。 しかし、頑張りとは裏腹に次第に客足は途絶え、 高額な家賃と人件費と仕入れの支払いが できなくなってしまいました。 またしても債務超過です。 気づけば、借金は4000万円になっていました。 身も心もズタズタになり、 レストランも廃業せざるを得なくなりました。 36才。 借金4000万円 26才の時、留学を決心してから約10年後 私は、どん底まで落ちました。。 「困ったな、借金返せるのかな。」 「ほんとにどうしよう。」 「またする事なくなった。」 「人生楽しくないな。」 「なんで辛い事ばっかりなんだろう。」 「生きてても、楽しい事がないな。」 「死んだら楽になれるのかな」 私は、リアルに自殺を考えました。 成功できない自分が恥ずかしくもあり、 惨めでもあり、楽しくもない、 おまけに、結婚どころか、恋人すら居ない。 何もかも自信がなくなりました。 「何してんだろう俺。」 私にとって、 人生で最も落ち込んだ時が、この時でした。 結局、自殺する勇気もなく今も生きてますが。 しかし! そんなどん底の窮地から私を救ってくれたのは、 なんと、Hさんでした。 東京でお世話になったHさんです。
どん底からの生還
気づけば、Hさんとは26才からの10年もの付き合いで、 私が韓国で奮闘している間も、 ちょくちょく連絡をくれていました。 実はレストランを開業する際の必要な資金として 200万円を貸してくれたのも、 Hさんなのです。 ちなみにHさんは私のレストラン開業に大反対でした。 それにも関わらず Hさんは私に200万円を貸してくれました。 レストランも廃業して、Hさんへの負債も200万円。 そんなズタボロの私にHさんは、 借金返済を迫ると、思いきや、 なんと! 救いの一手を与えてくれました。 「俺のやってるウェブマーケティングを学べ!」 「コツコツ努力タイプだから、向いてるよ。」 「ITならいける気がするぞ。」 私は、即決で日本帰国を決めました。 Hさんの会社は東京の宝町。 私は、なけなしの資金をはたいて 小岩の月2万円のボロアパートで生活をはじめました。 毎朝4時15分の始発に乗り、 夜9時までHさんの会社に出向して、16時間学んで働きました。 もちろん給料はなしです。 Hさんは、私にITの技術を教えてくれました。 ブログを一つ立ち上げ、 SEO・マーケティング・ディレクション・ライティングを教えてくれました。 私はコツコツ学びながら、やり続けました。 しかし、1ヶ月経っても売上はゼロでした。 2ヶ月経っても売上ゼロ 3ヶ月目もゼロ 4ヶ月目もゼロ 5ヶ月目もゼロ そして、ついに! 6ヶ月目にして初めて売上が出ました! なんと、 売上100円!笑 正直笑ってしましましたが、 7ヶ月目に30万円達成し、 8ヶ月目には、なんと、100万円達成できました。 嬉しかったです。 また何か救われたような気がしました。 その後、数ヶ月で Hさんへの借金200万円も返すことができました。 今思い出しても涙が出るくらい嬉しかったです。 希望の光が見えました。 そしてHさんは、私が学び続けたこの8ヶ月間、 いつも私にエールをくれました。 「いい感じだぞ!」 「その調子だ、コツコツがんばれ!」 「なんだか今までとは違う。勝機が見えるぞ!」 「今回は行けそうだぞ!」 何度もエールをくれました。 成功者のHさんが言う言葉全てが 安心安堵に溢れる言葉として聞こえていました。 私は、8ヶ月のIT修行を終えた後も 継続的に収入を得ることができるようになり、 累計3000万円を稼ぐことができました。 それは、まさに 「どん底からの生還」でした。 超嬉しかったです。
ITビジネスからの気づき
私はHさんの会社で多くのITビジネスのことを学びました。 それと同時に、自分なりの気づきも得ました。 私のやって来たプリン製造業とIT業の大きな違い。
プリン製造業 | IT業 | |
①人件費 | パティシエと販売員が計40人 | ほぼゼロ(自分だけ) |
②家賃 | 工場と10店舗のお店 | ほぼゼロ(ドメインくらい) |
③仕入れ | プリン6000個分の材料 | なし |
人件費、家賃、仕入れの3つは、
私が最も苦しめられた要素でした。
しかし、IT業はこれらの要素が、
ほぼ皆無である事に気づいたのです。
当たり前といえば、それまでですが、
私にとっては大きな気づきでした。
これからは
「この3つの要素は、なるべく避けて行こう!」と心に誓ったのです。
Hさんから伝授されたIT技術を武器に
その後は、3つ4つとお仕事を頂く事ができました。
Hさんから教わったIT技術を活かして
Sさん(パチンコ3店舗)の為にお仕事をする事もできました。
私は必死に仕事をこなして稼ぎました。
人生、山あり谷ありとよく言いますが、
本当に大きな谷を駆けおりるかのように
仕事に、人に、恵まれました。
私は仮想通貨にも大変興味を持っていました。
韓国語、IT、仮想通貨という私のスペックに
さらに多くのお仕事が舞い込んできました。
私は全力で人々のために動きました。
「日本で流行ることは、韓国でも流行る。」という流れがあり、
韓国でも仮想通貨ブームは物凄いものでした。
仮想通貨メディア(Token News H Ltd)における
韓国プロジェクトマネージャーも担当しました。
私がマネージャーを務めた韓国ICOカンファレンスに
1000人もの投資家を動員させる事もできました。
仮想通貨に携わる事で多くのことを学び、
自身でもICOプロジェクトに数百万円投資をして
何十倍もの利益を得る事にも成功しました。
そのおかげで、4000万円の借金も完済できました。
今は、IT事業と仮想通貨で稼いだお金の半分以上を投資に回しています。
・仮想通貨に3000万円投資
・海外不動産に2500万円投資
・ベトナム日系ファンドに3000万円投資
・アクティビスト・ファンドに2000万円投資
・オプション取引に500万円投資
ちなみに、「ベトナム日系ファンド」はSさんのファンドです。
私が大切にする価値観や信念
人生のどん底を味った私でも 今のようになれた事には要因があります。 それは、「人」です。 私のやって来た全ての事には「人」が関わってきました。 数えきれないほどの失敗もして来ましたが、成功もできました。 その2つの経験をして明確に分かったこと。 それは、 私の「成功」には、全て「成功者」が関わっていたということです。 特に注目すべきは、Hさんです。 Hさんが居なければ今の自分は無い。と言っても過言ではありません。
チャレンジした事 | 関わった人 |
ブログで成功 | Sさん(Hさん紹介) |
カンジャンケジャンで大失敗 | 自分だけ |
韓国ガイドで成功 | Sさん(Hさん紹介) |
韓国バッグで成功からの失敗 | 自分だけ |
アプリケーションで失敗 | 自分だけ |
韓国でのプリンで失敗 | 自分だけ |
韓国でのカフェで失敗 | 自分だけ |
韓国でのレストランで失敗 | 自分だけ |
日本でのITで成功 | Hさん |
仮想通貨への投資 | Wさん(Hさん紹介) |
エジプト不動産への投資 | Tさん(Hさん紹介) |
ベトナム日系ファンドへの投資 | Sさん(Hさん紹介) |
アクティビスト・ファンドへの投資 | Tさん(Hさん紹介) |
オプション取引に投資 | Sさん(Hさん紹介) |
「人」の次に大切な要因だったことは、
「やり続ける信念」でした。
何をもって、失敗とするかはそれぞれ異なりますが
とりあえず、満足いく形になるまで
「やり続ける」という信念が大切です。
ホリエモンも言っておりました。
「バカは頭が良い人よりも成功しやすい」
バカは平気でリスクを取り、失敗を怖れない。いい意味で鈍感。
何度でもチャレンジを仕掛けられ、結果的に成功する。
バカは最強なのだ。三振を怖れず、自ら打席に立ちにいく。
周りの空気や意見なんか気にせず、
とにかくバットを振りにいく図々しさが、高い打率を引き寄せている。
これ、私に当てはまっているなと思いました。
「やり続ける」バカな私でした。
「人生は一度きり」だからすべき事
現在私は結婚をして、シンガポールに住んでいます。
理由は色々ありますが、
最もな理由は
「人生は一度きり」だからです。
私は英語圏に住む目標がありました。
世界の公用語は英語です。
死ぬまでに多くの「人」に関わり、
多くの出来事に出くわしたいという思いがあります。
26才から、たくさんの事にチャレンジしました。
これからもチャレンジしなければなりません。
そして、「幸せになりたい」
私の「人生の目的」は「幸せになりたい」と冒頭で書きました。
幸せと言っても、その定義は曖昧ですが、
私の持論として
幸せであるためには、身近も幸せでなければならない。
という考えがあります。
私は自分の実体験より「人」の大切さを学びました。
成功のためには「成功者」が必要だと身に染みたからです。
今年で私は43才です。
40代のうちに「資産10億円の達成」を目標として
今、事業や投資に勤しんでいます。
そして、目標達成の為には、仲間が必要だと思っています。
私のこれまでの人生における様々な場面で
救ってくれた先輩のような人(仲間)たちと
関わって行きたいですし、
私もそんな人間になりたいんです。
刺激を与え合いシナジーを起こしていける仲間。
そんな仲間たちと、身も心もより豊かになって
「大人の青春」を味わいたいのです。
私にはパッとした青春の思い出がありません。
10代は勉強
20代は廃人
30代は失敗の連続とチャレンジ
仲間と関わり、共に生きて、何かを成し遂げたい。
映画アルマゲドンのような仲間とともに
何か成し遂げられるような事が生まれたら
人生は、どれだけ有意義な事になるでしょうか。
大袈裟かもしれませんが、そんなことを考えます。
長らくここまで読んでくださり、ありがとうございました。
私の価値観や信念に共感してくれそうな仲間を
いつでも募集しています。
また、私の密かな挑戦として、
「仲間も億万長者にしたい」という想いがあります。
私と「大人の青春」を謳歌したい方は是非メッセージを下さい。
中学生でも理解できる投資の書籍が読めます
現在、私が取り組んでいる投資案件の中でも特に注目している3つを紹介します。
・エジプトの新首都に開発中の不動産投資(想定利回り10%、物件価値は青天井)
・ベトナムの日系ファンドへの投資(利回り14%)
・アクティビス・ファンドへの投資(昨年の運用実績は、利回り20%)
この3つの中でも、特にエジプト不動産に注目しています。
エジプトの平均年齢は現在24才。
2050年までに人口は2倍近く増加して高度成長期をむかえます。
まるで日本の1960年代のような姿が、現在のエジプトです。
「中学生でも分かるエジプト不動産」と題して
エジプトで起こる「首都移転」のリアルを
一つの書籍にまとめてみました。
文字通り、中学生でも分かるくらいの内容で
10分ぐらいでサクッと読めるので、
ぜひ興味があれば読んでみてください。
公式LINEアカウントにて友だち追加して頂き、
「書籍希望」と、メッセージをお願いします。

